ざっくりChina 始皇帝の時代 関中四関

ざっくり China「関中四関」

 

西安を囲む関中四関

咸陽・西安の渭水盆地(いすいぼんち)は、険しい山で囲まれ、守備に適した地形。渭水を遡れば天水を経由して蘭州に出られます。「シルクロード」です。

「关中四关」は、隴関ができた漢代以降の呼び方ですが、渭水盆地は東に函谷関、西に隴関・大散関、北に蕭関、南に武関を配置して「関中」と呼ばれます。

渭水盆地を囲む「四関」とは・・・

 

函谷関 (潼関の一部とする見方もあり)

Wikipedia日本語(函谷関)を参照してください。

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隴関(ろうかん)、隴関道

日本語中国語のWikipediaで見つからないので最後の手段?百度一下。「隴関」で検索。

「三秦游」という(陝西省専門?)旅行会社を発見。ナカナカ専門的な内容です。

(信頼性が高い)百度百科「陇州·陇关道」も確認。

渭水の左岸(北側)を西に進み、険しい上流部だけ迂回するシンプルなルートです。
咸陽→興平→武功→扶風→岐山→鳳翔→隴県固関鎮→大震关(隴関・大振門)→天水市清水県→天水市→(蘭州)

秦の一族は殷の時代から国境警備に当たっており、殷が滅亡した後、反周の反乱に参加。甘粛省礼県(天水市の南西約60km)一帯に追い出されていたようです。その後、非子が馬の生産を周の孝王から請け負い、今の千陽県(宝鶏の北西約35km)あたりに定着しますが、陇山西部(礼県一帯)にも拠点があって頻繁に峠を越えていたようです(道が安定)。元は秦一族の私設道路?。

西漢の初期、隴関ができた後に隴関道と呼ばれるようになりました。長安から西部地域に通じる主要な道路の一つとなり唐代がピーク。唐代を過ぎると、邠州(甘粛省慶陽市寧県)を経由する萧关にとって代わられた・・・。

→秦の時代に隴関は存在しなかったようです。

百度百科「关中四关」を見ると隴関は入っていません。東も潼关(函谷関を含む)になっていました。

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蕭関(萧关)

百度百科「关中四关」より
漢代の蕭関は寧夏回族自治区固原市東南(涇水の近く)にありました。北宋は西夏に対する防御のため、漢代の蕭関より160km北の呉忠市同心県(銀川市の南220km)にもう一つの蕭関を作りました。
(慶陽市)環江、蓮河、涇河を経由して関中に行く道で、秦、唐、宋、元等が周囲に県(宿場兼防御施設)を置き、筑城を行いました。(五代十国は何もしていない?)

涇河を経由して関中(長安)から銀川方面に向かうルート上にあります。地図上で見ると隴関の近くに見えますが道の方向が違います。

隴関(隴関道)がすたれて、蕭関ルートがメインになった理由は?。唐王朝が崩壊して砂漠越えシルクロードの需要が減少。西夏(銀川)からの軍事的圧力に対抗するだけの時代になってしまった?。

長安は 漢、随、唐の王都でしたが、その後王都になる事はありませんでした(戦場になり、荒廃してしまった?)。唐王朝が滅亡した後は五代十国時代で、王都は洛陽か開封の時代が続きます。函谷関を逆向きに使えば安上がり(渭水盆地は外堀)?。

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古大散関(大散关)

大散関、五丈原諸葛孔明陵

地図で、箭括嶺=岐山を確認(岐阜の名前の由来になった岐山です)。近くに「五丈原」の文字。諸葛孔明陵がありました。四川省に向かう「蜀の桟道」の入り口です。呂不韋一味も蜀郡に流されていましたね。今だったらここを第2線にして函谷関を破られた時に蜀郡に立てこもる戦略を立てるところですが、洛陽から離れるアイデアは出なかった→流刑地。罪人が戻って来ないように見張っていたのでしょうか?。

蜀郡(四川省)が豊作の年は、食料を(咸陽に?)運んだ記録もあるようです。

百度百科(関中四関)

百度百科(大散关)

大散関=散関。(秦代~明末)陝西省宝鶏市西南の大散岭にあります。関中から漢中を通って、巴蜀(四川盆地)に通じる重要道路です。
特に「蜀の桟道」に行くには必ず通る地点。

Wikipedia「蜀道の険」2017-12-09
蜀道とは漢中から成都への桟道の事を指す。李白が「蜀道の難は、青天に上るよりも難し」と歌ったほどの難所であった。(Baidu漢語「蜀道难」) 中でも、垂直に切り立った岩肌に取り付く蜀の桟道は、現在は観光名所(四川省広元市朝天区 明月峡、陝西省漢中市勉県 石門桟道など)として知られる。

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武関(武关)

武関(大橋)
百度百科「关中四关」(武关)
陝西省商洛市丹鳳県の東約80里(40km)、武関河の北岸にあり、函谷関,蕭関,大散关と合わせて"秦之四塞"と呼ばれます。現在の南陽市から漢江の支流丹水をさかのぼると、武関大橋があるので、この辺?
秦岭分水嶺を越えると、長安(咸陽)方面。
秦、漢、隋、唐の時代は王都の「南大門」でした。
春秋時代は、「少習関」と呼ばれ、戦国時代になって「武関」になりました。
関城は小高い場所にあります。北に少習山、関城周囲1.5km。東西に一つずつ門があり、西門上に「三秦要塞」東門には「武关」の文字が掲げられています。
西側は比較的平坦ですが、東側は険しい道です。
詳しくは、百度百科「武关道」がお勧めです。

*「三秦」=陝西省(せんせいしょう)

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