西安から北京までを入れた画像を作ってみました。北京、包定、石家庄、鄭州、洛陽と、華北平原の大都市が山ぞいに並んでいます。その西側の山脈が、太行山脈(たいこうさんみゃく)。最高峰は小五台山で2,882mです。
「太行山脈 画像」で検索してみてください。「万里の長城」は人工の太行山脈?
太行山脈を越える主な峠道(山道)が太行八陘(たいこうはちけい)です。
* 陘=陉 xing2 ケイ:山脈が中断する場所=峠道
*関は峠の上ではなく谷が広がった場所にあり、峠道から出てきた敵を包囲攻撃する戦術が主流?。
洛陽に近い陘から順に番号が付いているので、カウントダウン方式でご紹介します。
第八陘 軍都陘 居庸関(北京市昌平区)
燕が居庸塞という要塞を建築して、『呂氏春秋』に「天下九塞、居庸其一」と記述されているそうです。
「太行山脈は拒馬河まで」?。拒馬河の位置は、Google マップで「十渡風景区」を検索すると判ります。少し上流に紫荊関長城があります。拒馬河の水源は、 河北省 保定市 淶源県(らいげん-けん)。現代の定義で考えると、「燕山山脈」に属しますが、秦の時代とは関係の無い話。気にしない。
第七陘 蒲陰陘 紫荊関(保定市 易県)
第六陘 飛狐陘 平型関(忻州市 繁峙県)
太原から北京に行く経路ですが、秦の時代は?
第五陘 井陘(せいけい) 娘⼦関(陽泉市)
太原から一番近く「最重要」とされています。
陽泉市をwikipediaで見ると「周代の前569年(霊王3年)、狄族の一支族である白狄により現在の孟県東部に仇猶国が建国された・・・」また、石家荘市平山県には「中山古城遺址」があるなど、雁門関を越えてきた?騎馬民族の影響が強い地域です。
紀元前229年に 王翦が太行山を越えて井陘関を攻略、趙国中部(邯鄲)を攻略。
雁門関から中山国や趙の王都圏への経路でもあり、趙(李牧)の呼吸口だったと思います。
秦滅亡後、楚漢戦争での「井陘の戦い」も有名です。
第四陘 滏口陘 (邯鄲市 峰峰鉱区)
滏陽河(ふようがわ)の源流なので滏口陘。
邯鄲は殷(商)時代から王都圏なので、道も良く整備されていたと思います。邯鄲から屯留まで173km!。
街道としての価値が高く、邯鄲の庭先?。屯留は是非とも押さえたい場所です。
第三陘 白陘(晋城市陵川県横⽔村-輝県市⻄)
「百度百科」で「白陘」を見ると、「河南輝県薄壁-横水河-陵川県双底村。東西30余公里的大峡谷・・・」今は馬車が通れるようですが、相当な難路で「孔道」と呼ばれます。
第二陘 太行陘 (晋城-天井関-焦作市沁陽市)
晋城市をWikipediaで見ると、「伝承では女媧氏、神農氏、尭、舜、禹などが晋城で活躍していた。」とあります。(黄河の影響を受けない)住みやすい地域?。「羊腸坂」と呼ばれる道なので、大軍の移動には不向き?。
第一陘 軹関陘 (臨汾=晋-運城-済源-洛陽)
「軹」意味は「車の幅」です。馬車が通れる重要な交易路でした。東側部分は王屋山南の台地を通ります。
運城市の塩湖「解池」で塩の生産が行われていたので、洛陽に塩を送る「塩の道」でした。
お問い合わせ先: 三里( sanli ) http://star.gmobb.jp/kingdom//
sanli3d@star.gmobb.jp(コピー注意!全角です)
Copyright ©Sanli Nakajima 三里(sanli) 中島章彦
http://star.gmobb.jp/kingdom//