ざっくりChina 始皇帝の時代 黄河と中原

ざっくり China(黄河と中原)

 

黄河中流と中原

現在の黄河(中流~下流)の地図です。

山西省の西側を南下して、潼関で渭水と合流。直角に曲がって東へ。古都洛陽、鄭州、開封の北を流れた後、左に45度曲がって北東方向へ。済南を通って渤海に注いでいます。

山西省南部(晋城、運城)から洛陽、鄭州周辺が夏王朝の範囲とされ、中華のルーツ(華夏)、洛陽から邯鄲(殷墟王都圏)までを中心とする華北平原を「中原」と考えます。

 

徐州付近の「廃黄河」

黄河下流(廃黄河とは?)

Wikipedia「黄河」(下流)には、

「黄河が流送する土砂は年間16億tと言われ、この土砂の堆積によって、下流部は天井川となる。このため、華北平原には黄河にそそぎ込む支流はなく・・・」

天井川は灌漑用水を取り易いですが・・・。

 

Google マップで徐州を検索すると、「廃黄河」という怪しい名前が見つかります。

Wikipedia (中国語、日本語)によれば

1194年に黄河の流れが変わって徐州や淮安などを流れて黄海へ注ぎ、1855年に再び北の渤海方面へ流れを変えた・・・。 661年間黄河は黄海に流れ込んでいました。黄河が流れていた跡には自然堤防が残り「廃黄河」という変な名前を付けられました。

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Wikipedia「黄河」(河道変遷)「古代には現代の河道に比べてかなり西寄りを流れており、渤海北部の天津付近に河口があったが、紀元前602年に記録されている最初の河道変遷が起こり、黄河は旧河道と現代の河道のほぼ中間を流れるようになった」

秦の時代、天津市は陸地になっていないようです。

キングダムに登場する鄴(鄴城遺址)は殷墟から20km ほどしか離れていません。秦時代の黄河は、今の漳河の河道を流れていた可能性もあります。

 

洛陽、鄭州、開封は黄河の南

洛陽、鄭州、開封 は黄河の南側

古都 洛陽、鄭州、開封 が黄河の南側にあるのは、北側より洪水に見舞われる確率が低かったためと思われます。が・・・

Wikipedia「開封市」の最後に、「現在の都市の下には明代の都市が眠っており、その下には宋代の都市があり、全部で6層が積み重なっている」とありました。

紀元前225年 王賁が黄河の水を魏都の大梁に引いて水攻めをやっていましたね。

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