ざっくりChina 始皇帝の時代 山西省と華夏

ざっくり China(山西省と華夏)

 

山西省南部が華夏

 

古代王朝「夏」は山西省南部から

潼関で黄河が曲がっています。その内側に運城市(標高約500m)、晋城市(標高約700m)があります。

洛陽黄河公路大橋の海抜は117mでした。黄河との関係を知る上で標高差のチェックは重要です。

Wikipedia(晋城市2017-12-05)
「晋城は古称を沢州といい、華夏文化の発祥地の一つである。伝承では女媧氏、神農氏、尭、舜、禹などが晋城で活躍していた。・・・」

维基百科(晋城)によれば、
晋城を中心とする地域は夏商王朝の期間を通じて「冀州(きしゅう)」、「畿内地」と呼ばれ、洛陽に王都が移転した後も首都圏扱いだったようです。洛陽と違って、黄河による水害の心配がありません。

想像ですが、禹は(黄河による水害の心配が無い)晋城を根拠地にして黄河の治水を行い、洛陽周辺を開拓して都を開いた人?

晋城~洛陽までのルート

晋城から洛陽までの(現在の国道を通る)ルートと、その標高データです。(Googleマップ)晋城の標高は約700m、洛陽黄河公路大橋の海抜が117mで、洛陽は約120mでした。

晋城から洛陽までのルート(標高データ)

「夏」は洛陽の二里頭遺跡

Wikipedia「禹」(2017-12-05)
「・・・夏商周年代確定プロジェクトに依れば、禹の夏王朝創始は紀元前2071年、王朝滅亡は紀元前1598年であったとされる。ただし同プロジェクトは、4千年前の年代確定には数年の誤差は避けがたいため、切りのよい数字を取って夏は紀元前2070年から紀元前1600年まで、と定めた。・・・・」

Wikipedia「二里頭文化」(2017-12-24)

おおよその地理的範囲は、河南省中部・西部の鄭州市付近の伊河(洛陽竜門石窟の前の川)・洛河(らくが Luò Hé)・潁河・汝河(淮河支流)などの流域から、山西省南部の汾河下流一帯にかけてであるが、その影響は上流の陝西省南部や、南の長江中流域にも及んだと見られる。

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文字は残っていませんが、陶器や青銅器、城郭の跡が洛陽市偃師市(えんし-し)の二里頭遺跡から出土しているので、殷(商)以前の王国が黄河沿いの地域に存在したようです。

「夏」王朝は、山西省南部(晋城市、運城市付近)から洛陽、鄭州付近の河南省北部で、紀元前21世紀から紀元前17世紀まで。

淮河や長江流域にも近い二里頭文化は、紀元前20世紀の寒冷化時代を多品種栽培の農業技術で生き延びたようです。

(農業技術と交換に土器や青銅器をプレゼント?)

 

秦の膨張

(前771年まで)西周の時代、晋が大国として存在していた期間は安定していたようですが、前403年 三晋分裂 あたりから秦の影響が拡大します。

前361年に秦は函谷関を作り、前352年頃には雍から咸陽に遷都、前340年に黄河より西を魏から奪いました。

前265年 白起が 韓の野王(現 沁陽市)を奪取。→韓は上党(現在の長治、高平、晋城)を放棄、山西省地域は秦の影響が大きくなります。

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山西省関連の年表

前21世紀  夏成立(王都:洛陽) ~前17世紀まで

前20世紀  気候変動(寒冷化+洪水) 各地で文明消滅(水害又は地震の痕跡、大飢饉?)
前17世紀  殷(商)成立 (洛陽)二里頭遺址→(鄭州)商城遺址→(安陽)殷墟
前11世紀  (西)周王朝 成立 王都(西安付近)灃鎬(灃京→鎬京)

前11世紀  周 成王の弟が分封され、晋が始まる。

晋の領土の範囲は現在の山西省より広く、西は渭南市、東は邯鄲まで。

国都:最初は太原市→すぐに(周の王都に近い)臨汾市内に遷都。

1. 唐(後に晋と改称) (山西省太原市)
2. 曲沃(山西省臨汾市曲沃県)
3. 絳(翼とも称す) (山西省臨汾市翼城県)
4. 新絳(旧称新田) (山西省臨汾市侯馬市晋国古城遺址)

前771  犬戎之禍。犬戎 周の王都 鎬京を攻略

前770  周 洛邑遷都(周が小国に転落→春秋時代)

前714  秦 平陽(宝鶏市眉県)に遷都。
前677  秦 雍(宝鶏市鳳翔県)に遷都。
前659  秦 穆公(ぼくこう)即位(~前621年)

前403  三晋分裂 この頃、秦の国都は雍のまま。

前375  韓 鄭を滅ぼし、都を鄭に移す
前356  秦 商鞅 第一次変法
前361  秦 孝公 函谷関を作る

前352頃  秦 咸陽に遷都

前350  秦 商鞅 第二次変法(度量衡など)

前340  秦 黄河より西を魏から奪う。

    魏は安邑(運城市)→大梁(開封)へ遷都

前316  秦 巴蜀を併合(四川省を植民地化。)

前265  秦 白起 韓の野王(現 沁陽市)を奪取

    →韓の上党が孤立
前262  秦 王齕 上党を占領

前262~260 長平の戦い(高平市長平之戦遺址)

前259  秦 邯鄲攻撃(失敗)

前247  秦 太原郡設置(県治:晋陽=太原)。

    山西省地域の領土化を開始。

前246 晋陽(太原)で反乱が起こり、蒙驁が平定。

前239 屯留で成蟜の反乱(趙に降伏)→秦が奪還

前236  秦 王翦 閼与を攻めた後、鄴を取る

前228  秦 王翦 趙の井陘を降し、邯鄲を攻略

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おまけ 黒羊丘、金安、列尾は?

黒羊丘、金安、列尾は?

黒羊丘、金安、列尾共に Wikipedia、百度で見つかりません。フィクションですが、制約条件をクリアしそうな場所は限られています。(ざっくり推測)

黒羊丘?
趙国西部=「屯留以外の上党地区」とすれば・・・
紀元前262~260年長平の戦い(晋城市高平市長平之戦遺址)からの流れで

紀元前259年に邯鄲攻撃(失敗)の履歴があります。→次の侵攻も計画段階では屯留→邯鄲が本筋?

紀元前247年  秦 太原郡設置(県治:晋陽=太原)で、太原盆地の秦の領土化がスタート。

紀元前246年  晋陽(太原)で反乱→蒙驁が平定。

紀元前239年  屯留で反乱(趙に降伏)→秦が奪還

紀元前236年  鄴攻略

屯留の住人も入れ替えたようですが、屯留の強化が必要になりました。

→ 山西省 臨汾市 安沢県(あんたく-けん)(臨汾市東北部、太岳山南東麓)なら川(沁河)があり、大軍勢の駐屯が可能。屯留西側の丘陵地帯でどうでしょうか(屯留の後方支援基地)?。→百度百科「太岳山」、Google マップでも「太岳山国家森林公園」が見つかります。太岳山は最高海拔2566.6米と本格的な山なので、その東の丘陵地帯?

 

金安?
山西省臨汾市侯馬市(こうば-し)なら屯留に行くと見せかけられます。城の規模も大きかったはずです。春秋時代から戦国時代にかけては新田(新絳)と称され、晋の国都が設置されていました。(侯馬晋国遺址)

 

列尾?

兵糧を大量に輸送する秦国軍が軹関陘(運城市絳県冷口郷⇔河南省済源市)を通ったとすれば、関の位置は済源市で決まりです。王屋山の地形を利用する場所かと思ったのですが、(戦国時代)魏国の城が「済源市軹城鎮」にありました。(済源市街)

*太行陘を押さえられる 野王 (焦作市 沁陽市) かも知れません。

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