煉獄 (Purgatory) 2


すぐ側に、人の気配を感じた。

柔らかい物で身体を擦られている。まだ生々しく感触が残る皮膚は、びくりと反応した。
「……う…」
身体が鉛のように重く、芯から疼くように痛む。奈落の底から引き摺り上げるように朦朧とした意識を集中して傍らを見上げると、顔を傾けて覗きこんでいた濁った視線にぶつかった。

「………?」

気がつけば、独房の寝台に横たわっていた。吸魂鬼の姿は無い。傍らの机に置かれたランプに蝋燭が灯り、ちろちろ揺らめく炎は明かりの届かない部屋の隅で闇を一層深くしていた。
小さな木の椅子に座って寝台を覗きこんでいるのはいつも食事や新聞を運んで来る男だった。アズカバンで働く、数少ない「人間」だ。名前は知らない。

分厚い唇、張り出した額、幽鬼のようにこけた頬。落ち窪んだ相貌は白目が黄ばんで濁り、褐色の眼球に薄い膜がかかっている。黒檀のような肌が、どこか南国の生まれを思わせた。
何か言おうと口を開きかけると、ぴりっと傷口が痛んだ。思わず顔を顰める。男は無表情に湿らせたタオルを差し出し、シリウスの唇に固まった血をぬぐった。

瞬きして見上げる。

男の介抱は思いがけず丁寧で、柔らかくあてがわれる大きな掌には不思議と嫌悪感を感じない。溜め息をついて静かに礼を言うと、首をめぐらせて暗い目の男はぼそりと言った。
「あんた、馬鹿ね」
異国訛りの、低いかすれた声で続ける。
「奴ら、喜ばすだけよ」

蝋の溶ける匂いが微かに鼻腔を刺激する。

暫く沈黙してシリウスは答えた。
「…かも、な」

罪の意識に苛まれる者がこのアズカバンで理性を保つのは、ある意味で狂気だった。ディメンターの悦びは囚人の深い苦しみ、消えない慙愧の念に囚われて病んだ魂。狂おしい慟哭を、理性の宿る嘆きを、彼らは好むのだ。早々に正気を手放した囚人には看守の興味は向かない。

何故狂気を受け入れて楽にならないのかと、男は問うているのだろう。今の彼は、吸魂鬼にとって血を滴らせてぶら下がった子羊の肉のような物なのだから。

「あんたの身体は奴らの臭気で満ちてるよ」
低く、男はうめいた。
「ディメンターの精気は精神を蝕む猛毒よ。こんなに流し込まれたらもう元に戻れない」
シリウスは彼の苦渋に満ちた顔を見た。男は太い親指でこめかみを押さえた。

「……」
「あんたはここから一生出られないけど」
男は首を振った。
「もし出ても普通の身体には戻れないよ」

「耳に、粘ついたもんがこびりついてよ、
奴らの声がいつだって聞こえるようになるよ」

「眼が、暗いとこにしか向けられなくなるよ」

「……光を、恐れるようになるよ」

「………」


しばらく男を見つめてから、静かにシリウスは言った。
「……あんたみたいに?」


男は頭を垂れて深く息を吐いた。顔は完全に陰になって表情は伺えなかったが、唇が震えているのが判った。
「わしは、戻ってきたのよ」
ひどく掠れた声だった。
「冤罪だったのさ。故郷に戻ったのによ」
「何故…?」
暫く、男は答えなかった。
蝋燭の明かりを視界の隅に捉えて、シリウスは待った。

低く、遠く、風が波のとどろきを運んで来る。

この檻に連れて来られた日の事を思い出す。
荒海に囲まれた監獄の外壁は海風に晒されて古い骸骨のように白茶けていた。白波は凶器となって漆喰を削り、剥き出しになった鉄骨は錆びて腐食している。

その、緑青の毒を思った。

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