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長文メッセージ
ここから先はやや長い文章になります。

2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生した際に、
私達が率直に感じたことを緊急メッセージとして発表したものです。
私達の活動のすべての原点とも言える文章です。

長いので、途中、誤解を招いてしまう記述があるかも知れませんが、
最後までお読み頂けたら、ご理解は頂けるのではないかと思います。

先入観や偏見無く、お読み頂けたら幸いです。

世界平和実現のために私たちが出来ること

 事件に巻きこまれお亡くなりになった方々へ心よりご冥福をお祈り申し上げます。被害に遭われた方々へこの場を借りてお見舞い申し上げます。

 先ごろアメリカのニューヨーク周辺において同時多発テロという非常に悲しい大事件が起きました。そして、今なおこの事件は解決しておりません。多数の行方不明者がまだ見つかっておりません。被害は拡大しており、二次災害などによる犠牲をも生みだしております。
 直接で最大の被害国である米国の捜査により、実行犯、犯行組織、指導者などの容疑者、テロ関係者が絞り込められています。そして米国はこのテロ事件を自由社会に対するテロリスト集団による戦争であると位置付け、報復計画を立て、英国、日本、その他各協力国も様々な形でこの計画に参加しています。米国および各協力国は、難民救済に尽力し、武力報復攻撃も一般市民に被害が出ないように慎重に計画しすでに実行に移されています。

 事件に直接関わってしまうことになった方々にとってはもちろんのこと、報道等でこの事件を知らされた方々にとっても、この上ない衝撃だったと思います。
 私たち運営スタッフ一同も、微力ながらこの世の中が少しでも平和で穏やかであるようにとの願いを込めて日々暮らしている市民の一員として、衝撃を受け簡単には言葉にならないほどの悲しみや憤りやその他もろもろの感情に包まれました。そしてまた、これらの感情はいまだ的確な言葉によって書き表されることを拒みつづけています。私たちと同様の気持ちでおられる方々は少なくないでしょう。
 しかしながら私たちは、このようなサイトを運営しているということ、そしてそれを応援し支えてくれている方たちがいる、という責任から、何らかのメッセージを表すべきであると思いました。容疑者、テロ関係者、特定の国家、民族、宗教信仰者などに対して批判・差別・攻撃などをするような意味を全く持っていません。私たちは、たとえば犯人であると名指しされた人物がいたとしても、それをマスコミの報道などによって知るだけで、真相やそれぞれの事情などについては全く知る由もないからです。長期にわたる歴史的背景、習慣、環境、国家間感情などについて、詳しく知らない私たちに、語る資格があるかどうかというのも疑問です。
 また、心無い誤解や偏見により、何の罪もない外国人の人達や、敬虔な宗教信仰者の人達が、不快な思いをしているという問題も生まれています。これは、今回のテロ以前から、本来なら同じ宗教の下考えが同じはずである人たちの内のほんの一部の人たちが、教義をある意味自分たちに都合よく解釈し、自分たちのテロ行為や考え方について正当化する道具として使っていることが原因であると考えられます。
 私たちは私たちの言葉によって誰かが傷付いたり、不快な思いをすることを当然のことながら望むものではありません。が、しかし、真犯人に対しては、たくさんの死者負傷者被害者を出し、甚大な破壊を生み、人として許されないことをした当然の報いとして、裁かれるべきであるという気持ちは、皆さんと何ら変わりはありません。

 私たちは考えました。そして、あるひとつの重要なテーマともいえることにたどり着きました。
 これは他人事ではなく自分たちの問題として考えるべきなのではないか。自分たちはいったい何をしてきたのだろうか。そして、これからいったい何をすべきなのだろうか。


 つまりは、結論を言ってしまえば、こういう事だと思うのです。
 「自分はこんな自分で良いのか?」

 拡大解釈という言葉がありますが、ここではその逆に縮小解釈ということをしてみたいと思います。
 常日頃、まったくさりげなく私たちが暮らしていく中で、まったく無意識なうちに抱いてしまう感情。嫉妬やコンプレックス、闘争心や劣等感、懐疑心、私利私欲、傲慢、わがまま、利己的性格、自分勝手、その他の、いわばマイナスの感情や性格、性質。ほとんどの場合、それは理性や常識、道徳心などという人としていっそう尊い感情、もしくはいわばプラスの感情によってコントロールされ、表に出されずに、人を傷付けることはないのかもしれません。
 わざわざここに書き加えるほどのことではないかもしれませんが、ここでいうマイナスの感情とは、いい意味で人を成長させるように働く競争心などは含まれないこととします。親が子供のためを思って叱るとか、人のために心を鬼にして忠告するとか、もちろんそれらの行為も含まれません。むしろ自己犠牲心とも言える、尊いことと言えるのではないでしょうか。
 例外的に、理性的常識的道徳的で、人を傷付けるつもりもない行動が誤解を生み人を傷付けてしまうこともあります。軽い冗談で言ったつもりが、本人もそんなに気にしていることもないだろうと思っていたことについて言ったことが、以外にも人を傷付けてしまうこともあります。それらは仕方がないと言っていいかもしれません。もちろん人を傷つけてしまったなら謝ることは重要で当然のことと思いますが。
 しかし、人はいつも理性的で常識的で道徳心を持って行動できるとは限りません。時に少し配慮が足りなかったために人を傷付けてしまったり、時には悲しいことに意図的に人を傷付けてしまったり。また、マイナスの感情に支配されていることに麻痺してしまって、人を傷付け続け、その結果周りの人々に疎まれ嫌われ、なおさらその人々に対してマイナスの感情で接する、という悪循環に陥っているこの上なく悲しい人もいるのではないでしょうか。
 そういう人は、まったくの例えば、なのですが、意識しているかしていないかは別として、こういう考え方に陥っているのではないかと思います。
 「あの人は自分にないものを持っている。自分にない幸せを手にしている。自分より評価されている。自分の立場を脅かすかもしれない。よりいっそう幸せを手にするかも知れない。あの人のせいで自分は幸せになれないのだ。あの人にいやな思いを少々与えたってかまわない。なぜなら自分より幸せなのだから。そうしなれば気が治まらない。自分が幸せになれないのはあの人のせいだからだ。ここから追い出してやっても構わないのだ。あの人がいる限りわたしは幸せになれないのだから」
 自分を含め、周りにいる人たちをしてみて、心当たりのある人物がいるのではないでしょうか。今現在はいなくても過去にいたとか、ここまでの人はいないが、似たような人ならいるとか、これは自分のことだと思う人もいるかも知れません。というよりも、ほとんどの人が、多かれ少なかれ、自分にもこういう気持ちはあると思うのではないでしょうか。
 ストレスだらけといわれている現代社会において、こんな人にはまったくお目にかかったこともないし、聞いたこともない、という人は恐らくいないと言っていいのではないでしょうか。それはとても悲しいことではあります。しかし、昨今日本国内においても悲惨で嘆かわしい事件が多発している現実が、それを裏付けてしまっています。

 ここで、今度は拡大解釈をしてみたいと思います。拡大解釈なので、ここからは周りを見渡してもそういう人は滅多にいないだろう、というような、大袈裟な言い方が続くと思います。
 このようなマイナスの感情が積もり積もったら果たしてどうなるのでしょうか。何も知らない人を仲間に巻き込んでさらに自分の感情を晴らそうとするのではないでしょうか。

 「あの人は悪い人だ。あの人は自分さえ良ければいいと思っている。あの人のせいであなたはきっと幸せになれない。あの人を信じてはいけない。私を信じなさい。私の考えることはあなたを幸せにする」
 それがさらにエスカレートすれば、さらに思想の違いや国際感情などが原因だったり、何年もの何世代もの年月が積み重ねられたりして、規模が拡大したとしたら、ゆくゆくはひとつのテロリストグループや、戦争を起こす国家が出来上がりかねない、と言えるのではないでしょうか。あくまでも、大袈裟に拡大解釈してのことですが。
 つまりテロなり戦争なり、誰にでもある人間の感情というものが引き起こしているのではないだろうか、ということなのです。そしてそれは、テロリストであろうと戦争を引き起こそうとする人であろうと、平和をこよなく望んでいる人であろうと、生身の人間であれば誰でも当り前に持ち合わせている感情だと思うのです。
 そうは言っても、このマイナスの感情を消すことなどできるわけがありません。マイナスの感情もプラスの感情も持ち合わせて、ひとつの人格になるわけですから。
 感情を消すなどという不可能なことをしようなどと言ったところで、出来ないものは出来ない、で話は終わってしまいます。でも、持っていく方向を変えることは可能なのではないでしょうか。もちろんそれすら簡単なことではありません。戦う相手は自分自身。自分が抱いたマイナスの感情と戦うわけですから、力がまったく互角の悪役を相手に戦うようなものです。人の性格も感情も表裏一体とはよく言われることです。一見マイナス面ととられる部分も見方を変えれば、プラス面ととることも出来るし、プラスの方向へ持っていくこともできる。逆もまた然りです。例えば嫉妬心は、自分を醜く映すこともあるけれど、より良い自分に成長させようというエネルギー源にもなります。
 このマイナスの感情をどの方向へ持っていくかによって、テロリストになるか、より寛大な尊い感情を持った人になるのかの別れ道になると思います。

 私たちが日常つい抱いてしまうマイナスの感情。それに負けて人を傷つけるのではなく、それに打ち勝ち、より尊い人格形成のためのエネルギーへと転換する。そのために、
 「自分はこんな自分で良いのか?」
 そう自分へ問いかけることの繰り返し。ただただその繰り返し。時に負けてしまうかもしれない。負けてばかりかもしれない。そんな自分に嫌気がさしてしまうかもしれない。人に邪魔をされることもあるかもしれない。でもあきらめずに戦いつづける。自分との戦いは、決して自分のためだけではない、周りの人たちのためであり、つまりは世界平和に繋がることなのだ。簡単なことではない。そしてそれは自分一代では終わらせない。子々孫々まで受け継がせる。そんな考えが周りの人々へ良い影響を及ぼし、百年かかるか千年かかるか解らずともやがて本当の平和が訪れる。
 テロなどという人として許されざる犯罪など、誰も恥ずかしくてできない。仮にやろうとする人物なりグループが現れようものなら、世界中から非難され孤立し、そんな考えを抱き生きていることすら恥ずかしくなるような、そんな世界の実現。
 確かに大袈裟な話です。でもそのような世界平和の実現こそが、本当の意味のテロリストへの報復であり、被害に遭われた方々へのせめてもの慰めになるのではないかと思います。

 私たちが今抱いている、テロリスト集団に対しての怒りと言う感情。これすらも方向転換することができると思います。

 ほとんどの人が、米国の武力報復を支持し、テロリストは徹底的に叩き潰すべきだと思い、一方では、あらためて世界平和を願ったり、武力報復に疑問を持ち反戦感情を抱いたり、といった複雑な感情に包まれているようです。報復計画は実行に移され、この後しばらくの間まだ何人もの血が流されるという事実は否めないでしょう。たとえ今度のテロ事件が早期に解決したとしても、現状のままではきっとまた新たに過ちを繰り返す集団は出てくるのではないでしょうか。一時的に世界平和を願ったところで、今度のテロ事件が解決したところで、それで本当の平和で穏やかな世界などが簡単に出来上がるわけがありません。そんなことは誰でも分かっていることなのかも知れません。ところが人は、ほとんどの場合、ひとつ危機的状況を脱してしまうとつい忘れてしまうものなのではないでしょうか。
 テロへの怒りを、本当の世界平和の実現のためのエネルギーにする。
 出来ないことではないと思います。
 そのためには毎日が自分との戦いになります。でも、他人との争いや、ましてやテロに脅えたり、戦争での戦いよりはぜんぜんマシなのではないでしょうか。より人間らしい、進歩的な戦いなのではないでしょうか。

 もし、私たちの大切な家族や友人が何らかの被害にあったときのことを考えたら、おそらく抑えられないほどの怒りと憎しみに支配され、加害者を殺してやりたいとも思うでしょう。世界平和うんぬん以前に、まずそうしなければ腹の虫が治まらず、何も考えられなくなるでしょう。今度のテロ事件で被害にあった方々のご家族の中には同様の気持ちでおられる方もいるのではないかと思います。そう思うのも人として当り前の感情で、誰に何を言われても命に代えてでも復讐してやるとまで思うかもしれません。その気持ちは誰にも止めることは出来ないでしょう。
 でも考えてみてください。犯人が捕まり裁かれる。命を奪い、復讐に成功する。そうなったところで大切な人たちは戻らない。その後の空虚な心で見渡した世界は、相変わらず殺伐としたまま。それで何が報われたといえるでしょうか。いったい誰の気が済むというのでしょうか。周りの人たちが少しでも真の平和について考え、真のテロ報復、テロ撲滅について考え、一歩でも前進していれば、わずかながらも未来に希望は持てると思ってもらえるのではないでしょうか。

 米国政府も誰も戦争をしたくてしているわけではない。米国軍人も自衛隊員も戦争がしたくて戦地に赴いたり、後方支援に行くのではない。このまま黙って見ていたらまた何をされるかも解らない。被害にあった人たちの気も治まらない。それ以外の人たちだって安心して暮らせない。
 私たちの代わりに命を賭けて戦ってくれている人たちがいる。その人たちの気持ちに応えるためにも私たちにはすべきことがあるはずです。
 日常の些細なことにいちいち腹を立てたり、鬱憤を罪もない人にぶつけたり、というつまらないことをする。そんなことをされた人はまたきっと他の人につまらないことをするかも知れない。つまらない世の中になる。結果、自分に返ってくる。平和から遠ざかる。そんなことにならないように、そんなつまらないことをしようとする自分と戦う。
 何もかも人のせいにして、人に対して不満をもつからストレスになるのではないかと思います。言い方を代えれば、本当に戦うべき相手は自分だと認めずに、自分と戦うことを避け、いつまでも逃げ回っている状態がストレスを生んでいるのではないかと思います。 自分の中にいる本当の敵、マイナスの感情と戦い、自分が強くなれば、つまらないストレスなど持たないような強さが身に付き、その強さに裏付けされた優しさが身に付くのではないかと思います。

 理想主義者のたわごとであり、何千年かかるかも解らない、実現するかどうかも解らない、少なくとも自分が生きているうちに見返りが無さそうな話に耳を傾けるほど暇ではない。そう考える人もいると思います。
 でももしかしたら、通信技術の発達した現代、かなりの勢いでかなりの範囲にまで誰かの考えが広がることもありうるのではないでしょうか。もちろん考え方のまったく異なる人に理解を求めるにはただ伝わればいいというものでもありませんし、世界の隅々にまで広がるには莫大な時間が必要ですが。
 何の見返りもないとしてもこんな考え方はどうでしょうか。
 「あの時代の人たちは、本当の意味での世界平和のために考え行動した最初の時代の人たちである」
 百年先か千年先か解りませんが、そんな風に言われることに悪い気はしないのではないでしょうか。
 それに、日本も戦争をしていたという残念な過去がありました。しかしその過ちのおかげで、その後の日本の歴史は平和を重視したものになったともいえます。私たちの世代はその恩恵を蒙っている。ならば私たちのいっそうの努力により、次の世代へより平和な世界作りのための足掛かりを作ってあげても良いのではないでしょうか。
 それよりも何よりも、マイナスの感情に負けない自分を作ることができたら、私たち自身が暮らしやすくなるのは間違いないとは思うのですが。

 ところで、自分に負けないとか、自分に勝つとか、そんなに難しいことなのでしょうか。
 先ほど述べたように簡単ではないとは思います。少しコツさえつかめば、まったく不可能ではないし、苦しむほどのことはないと思います。
 そのコツとは、まず自分の欠点を認めること。欠点とはまさしく、マイナスの感情と言い換えることができるのではないでしょうか。そして、自分をもっと楽にしてあげること。
 自分のことを、ある一定のルールに則って縛り付けている。それはそれでいい効果を及ぼし、いい結果を生むこともあるでしょう。でもちょっと引いて考えてみて、それが自分にとってとか、周りの人たちにとってとか、何かしらの害になっていないか考え直してみても良いのではないでしょうか。自分はこうでなければいけない、ああでなければいけない、あの人に負けるわけにはいかない、とあまりに自分を縛っていて周りの人たちに悪影響を与えてしまっている人が多いように思います。
 自分はそれほど完璧な人間ではない。むしろ完璧でなくても構わない。他の人の優れたところを認めて、その上で自分も高めていきたい。そのほうが自分にとって幸せなことだし、周りの人たちにとっても良いのではないか。そんな風に楽に考えて、今よりもっと幸せで平和な世の中になるのならこれほど良い事はないのではないでしょうか。
 たとえば、と言うにはあまりにも極端な例ですが、何かの考え方に自らを縛り付け、周りの人たちを巻き込みテロを起こす指導者という存在について考えてみれば、解りやすいと思います。

 平和とは何処かの誰か、ヒーローや指導者が作ってくれるものではなく、ましてや神様が与えてくれるものでもない。自分たちの力で作り上げるものである。そう思います。

 私たちの意見を押し付けるような書き方になってしまっている部分があります。押し付けがましい意見は、私たちの趣旨に反することなのですが、この度の事件に際して、緊急ということもあり、甘んじて遠慮なく表現させていただいた次第です。その割には一ヶ月もの時間を費やしてしまいました。
 まとまりもなく、稚拙な文章のために貴重なお時間を割いて頂き、最後までお付き合い頂き、読んで頂いて心から感謝いたします。
 どうもありがとうございます。


 心から世界平和を願って
                                           スタッフ一同


 ※この緊急メッセージについては事前事後の告知無しに加筆訂正することがあります。
  御了承ください。