鉄道写真いろいろ@エムサ菌総合研究所
京成赤電時代

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 祖母宅が京成線・谷津駅の駅勢圏にあったため、そこへの行き来の際にはほぼ毎回京成線を利用 していました。 とはいえ乗るのは年に数回、短い区間だけでしたが、成人まで横浜市の ド田舎に住んでいた私にとって、相対的に縁のある路線ではありました。
 その当時の京成線は既にステンレス車の導入を進めていたものの、ファイアーオレンジにステンレスで 縁取ったモーンアイボリーの細帯という塗装が施された『赤電』『 (初代の赤電 カラーと区別する意味を含めて) 新赤電』と呼ばれていた鋼製通勤車がまだ幅を利かせて いました。 私が祖母宅へ行っていたのは1995年頃までで、それはちょうど赤電が現在の塗装に塗り 替わりつつあった頃でした。 一時的に縁遠くなるもその数年後に私が千葉に転居したことで京成に 接する機会は格段に増えたのですが、そのような背景があるからか、21世紀になって10年以上経つと いうのに『京成=赤電 (新赤電) 』の印象が強かったりしています。

 そんな京成の鋼製通勤車、今となってはステンレス車に置き換えられての廃車が進みましたが、まだ 少数が残っており、赤電当時の雰囲気を残しながら稼動しています。 一部は京成電鉄創立100周年を 記念した『新赤電』『赤電 【※1】 』『青電 【※2】 』 のリバイバルカラー車になっています。

 ここでは、1980年代終わりごろから90年代前半にかけて私が撮った京成電鉄の写真をうち、 鋼製通勤車のものを中心にご覧頂こうと思います。 例によって超ド素人が撮ったもので、技術が 無いのにスライドフィルムを使っていたり、プリントやスライドの保存状態が良くないものばかり です。 画像ファイル化にあたっては見られるレベルまで補正してありますが、当然のことながら 原版の出来以上にはできず、それなりの出来の画像の寄せ集めになってしまいましたが、お楽しみ 頂ければ幸いです。

【※1】 ファイアーオレンジとモーンアイボリーのツートンカラーに、ステンレスで縁取られた ミスティラベンダーの帯を回した、初代の赤電塗色。
【※2】 僅かに茶色がかったような緑色の濃淡塗色。 旧型車を中心として都営地下鉄に乗り 入れない車両に塗られていた。

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1987.1.1 谷津

 アルバムに入れてある一番古い年代の京成の写真で、3100形3125の更新修繕施工後・冷房改造前 の姿です。
 3100形から始まったおでこの左右に前照灯があるこの顔は、窓周りの処理や妻面形状に細かな 違いがあるものの3300形まで引き継がれ、さらに2100形にも波及し、当時の京成を印象付けるもの となっていました。

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1988.3.27 谷津

 3600形の増備に伴って1988年3月末に全廃されることになった210・2100形のうち、4両編成 1本が往年の『青電』カラーに塗り直され、さよなら運転が行なわれました。
 このさよなら運転は中吊り広告で告知され、駅では青電編成が充当される列車の時刻表が配布 されていたため、祖母宅から横浜の自宅に帰る際にそれに乗りました。

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1988.3.27 京成上野

 青電に乗って上野に着いた後に普通列車としてやってきた、3100形3132 (冷房 改造後) です。
 3100形は冷房化工事の際に行先・種別表示の自動巻き取り・電照幕化と側面への整備も行なった ため顔が変わりました。 ただし、冷房化が先行した3150形ではおでこのヘッドライトが腰に 移設されたのに対して3100形はそのままで、結果的に『おでこライト』を赤電としては最後まで 残すことになりました。

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1988.3.27 京成上野

 ついに乗る機会が無かった初代『スカイライナー』AE10ほかの6両編成です。 この派手な 塗装は2代目で、初代塗装であるクリームと茶色のツートンカラーを見た記憶は私にはほとんど ありません。

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1988.3.31 京成船橋

 210・2100形の運転最終日もまた乗りに行きました。 写真はやはり青電の後続の列車で、3200形 3273 (冷房改造・更新修繕施工前) です。
 現在では高架化が完成し面目を一新した京成船橋駅ですが、地上時代は上下線で出札・改札が 分かれていて、下り線・西武百貨店側の出札は昭和60年頃まで自動券売機が置かれず、窓口で 切符を買った記憶があります。

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1989.3.30 京成津田沼

 3150形3175ほか6両編成です。 3150形は冷房改造時にヘッドライトを腰に下ろし、千葉急行 電鉄や北総開発鉄道に譲渡されてから廃車された車両も多かったので、この顔で長く走ることに なりました。
 3150形も前面貫通扉の種別表示を車内側から変えられるようになっていますが、この形式のみ 種別表示そのものは板で、扉の腰部分にはガラス窓が開けられ、その車内側には差し込み部分が ありました。 当時種別表示板を使っていた車両が普通列車の運用に就く際、無表示という意図 なのか赤電の車体塗装の色に塗りつぶされた板を掲出していました。 白地に黒文字で『普通』の 表示を掲出するようになったのは、塗装変更後だったように記憶しています。

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1989.3.30 京成津田沼

 3050形3059ほか6両編成です。 更新工事施工後・冷房改造施工前の姿で、外見は3000形と ほとんど同じ、中間車化改造された3000形を3050形の編成中に組み込んで稼動したこともあった そうです。

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1989.3.30 京成津田沼

 昭和60年頃から、実車を用いたVVVFインバータ制御方式の試験が各社で行なわれるようになり ましたが、京成では旧『開運号』・3200形3291〜3294の4両編成がそれに抜擢されました。  VVVF制御化と冷房化・更新修繕を同時に行ない、赤電では唯一の角型ヘッドライト・先頭付随車と なりました。
 なお、その他の3200形も冷房化と更新修繕を同時に行い、その際に種別・行先表示の自動化と 側面への整備が行われました。

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(2点とも)1992.2.26 京成立石

 1991年にAE100形『ニュースカイライナー』と3700形通勤車が登場した後あたりに、赤電の車体 塗装を変えようということで試験塗装車が走るようになりました。 画像はグレー地の4両編成と 白地の4両編成を連結した8両編成で、試験中はステンレスの飾り帯が維持され、帯の幅もそれに 合わせた細いものとなっていました。
 このほかにも地色の違いなど複数の塗装パターンがあったようです。

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1992.6.27 博物館動物園−日暮里

 3500形3556ほか4両編成です。 幕板の帯が青色になっていますが、もともとは赤色で、これも 赤電の試験塗装車が走っていた頃に見られたものと記憶しています。
 近年このあたりは耐震化工事と日暮里駅の重層化工事に伴って姿を変えており、高架下の倉庫や 作業場なども立ち退いているため、昭和初期に建造された高架橋の構造がよく見えるようになって います。

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1993.8.14 谷津−京成津田沼

 3100形3136ほか8両編成の急行・西馬込行きです。 京成では車両の色だけでなく列車種別の 変更も1990年代終わりごろから相次ぎ、現在 (2012年6月) では種別の インフレと細分化が進んでちょっとわかりにくくなった印象が強いです。 もっともこのところの 私は上野口か押上線しか乗らないので、停車駅案内とにらめっこすることは無いのですが・・・。

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1993.8.14 谷津−京成津田沼

 3200形3216ほか4両編成の大森台行きです。 千葉急行線がちはら台まで延びる前のひとコマです。

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1993.8.14 谷津−京成津田沼

 旧・開運号のうち3200形3298ほか4両編成も、冷房改造・更新修繕を受けて稼動していました。  戸袋窓は原形とほぼ変わらないようですが、開閉窓がユニットサッシ化されその外形が変わった ので、側面は新しいのか古いのか? どこかちぐはぐで、窓のラインも不揃いです。

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1993.8.14 谷津−京成津田沼

 『ニュースカイライナー』AE100形AE151ほか8両編成です。 当時はまだ昼間のヘッドライト 点灯が一般的ではなかったため、収納式ヘッドライトが閉じています。

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1993.8.14 谷津−京成津田沼

 3600形3681ほか6両編成の特急・成田空港行きです。 当時は京急線の羽田空港駅が移転する前で 京成線からの直通も無かったため、京成線内においては「空港=成田」の図式があったようで、 成田空港行きの行先表示幕では画像のように成田の文字が小さくなっていました。

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1993.8.14 谷津−京成津田沼

 3050形3058ほか4両編成です。 3050形も冷房改造時に行先表示装置が取り付けられ、おでこの 中央で2灯が一体となっていたヘッドライトは一灯ずつおでこの左右に振り分けられ、3100形に似た 顔となりました。 但しヘッドライトの取り付け位置が若干低いため、3100形との見分けは比較的 容易です。

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1994.8.5 糀谷−大鳥居

 京急線羽田 (現.天空橋) 開業の際に京急〜北総線系統の列車の一部が 羽田発着になりましたが、当初羽田方面の地上設備が8両編成に対応しておらず、一方の北総は6両 編成を持っていなかったため、都営5000形とともに京成の赤電がこの系統の運用に就いていました。
 画像は3300形3329ほか6両編成で、中間の2両が塗装変更されています。 複数の塗装パターンで 試験された赤電の塗装変更は、結局3700形に似た鋼製車体を載せた3400形に準じた塗装に決まり ました。 京成では検査入場を2両単位で行なっているために塗装変更も2両単位で行なわれた ようで、一時はこのような新旧塗装車の混結がよく見られました。

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1994.8.5 品川−北品川

 八ツ山橋ですれ違う、1131ほかの編成 (左) と3324ほか6両編成 (右) です。 京急車の京成乗り入れは青砥までに限れば既に頻繁に 見られましたが、京成車の京急乗り入れは行楽シーズンの臨時列車を除いて遅くまで行なわれず、 この頃を境に乗り入れ区間の延長・拡大が図られた感があります。

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1994.8.14 船橋競馬場−谷津

 塗装変更された3150形3166ほか8両編成です。 塗装試験と比べて側面の赤帯が太くなり、 ステンレスの飾り帯は撤去されました。
 3150形の前面種別表示板は、赤枠の形から塗装変更後も赤電当時のものをそのまま使って いたことが窺えます。

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1994.8.14 船橋競馬場−谷津

 3100形3112ほかオール赤電の8両編成による、急行・成田行きです。 後が切れたのが残念。

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1994.8.14 谷津−京成津田沼

 千葉急行電鉄にリースされた3050形3074ほか4両編成です。 当時の私の京成線利用機会が 少なかったこともあるのですが、千葉急車は京成の4両編成車と共通で運用されていたこと、 情報量も今と比べて格段に少なかったため、青地に白帯時代の千葉急車を撮ったことはほとんど ありませんでした。

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1994.8.14 谷津−京成津田沼

 特急運用に就く3500形3596ほか8両編成です。 一時期相次いだ更新と廃車の進捗によって、 今では3500形未更新車の優等列車運用は見られなくなってしまいました。

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1994.8.15 船橋競馬場−谷津

 3100形3113ほか4両編成の高砂行きです。 行先表示が自動化された際に前面向かって右腰部に 付いていた折り返し式行先表示板は撤去されましたが、それの取り付け金具は残っていました。

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1994.8.15 船橋競馬場−谷津

 新旧塗装混結の3300形3349ほか6両編成です。 3200形・3300形は更新の際に前面や側面窓周り のデザインが大きく変わっており、そのためか新塗装の違和感はそれほど無かった気がします。

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1994.8.15 谷津付近

 塗装変更後の3100形3124ほか4両編成です。 おでこライトの3100形の新塗装では、腰の赤が 目立ちます。 折り返し式行先表示板の取付金具は、塗装変更の際に撤去されたようです。

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2002.8.2 千住大橋

 赤電時代の京成線を語るうえで外せないのが、この列車接近表示装置です。 列車が接近すると 「(前駅)を出ました」「通過列車です 後へさがって下さい」の部分に内蔵された電球が点灯し、 合わせて表示機筐体の横についているブザーが鳴って旅客に知らせるというものです。 電球 (蛍光灯) の点灯による表示機は国鉄をはじめ各社にありましたが、京成 のものは設置時期がかなり古かったのでしょうか? 盤面の文字が毛筆体で、雑誌にはレトロ調という 枕詞を付けられて紹介されたこともありました。 同居している広告が沿線に工場がある『コーシン 牛乳 (興真乳業株式会社) 』なのも、京成の微妙なローカル私鉄らしさが 見えてきます。
 画像のものは千住大橋駅下りホームのもので、レトロ調の表示機としては最後まで、それも良好な 状態で残っていたものです。 ほかの駅では、電球が切れたままでブザーだけが鳴っていたり、ブザー の音がつぶれまくっていたり、盤面のペンキが色褪せたりして薄くなって何が書いてあるのかわからない 状態で稼働しているものもありました。
 なお、この千住大橋駅のレトロ調列車接近表示装置は、エレベーター設置工事の際に撤去されました。

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 いかがでしたでしょうか? ご高覧頂きありがとうございました。

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2012.6.20 エムサ菌