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相模鉄道 (以下『相鉄』) 5000系は、1955年に登場した
(旧) 5000系がルーツで、相鉄初の自社発注車でボディマウント式の
超軽量車体・直角カルダン駆動装置を持った高性能車両でした。 しかしやや特殊な構造が故
に車体の老朽化が進み、また車体長も短く急増する輸送量に対応できなかったため、1972年と
1975年の2度に分けて全20両が20m級のアルミ新製車体に載せかえられ、車番も種車の番号に
100を加えた「5100系」と改められました。 さらに1988〜89年にかけて5000系から流用した
台車や機器類が老朽化してきたことからVVVFインバータ化改造を実施、6000系以降の車両と
同じ基準で車両番号が付け直され (但し50番代となっているため旧々車番
との重複はない) 、「5000系」となって再々登場した・・・ という車両です。
車体載せ替えにより旧5000系当時の面影がなく、またVVVF化改造と合わせて半数以上の車両が
電装解除され、その際に中間車化改造された車両もあるなど、大きく姿を変えていました。
2005年ごろ、51F・52Fの計10両が廃車となり、残る53F・54Fの計10両も廃車前提で厚木操車場
に留置されていましたが、車両不足が生じたことにより運用に復帰しました。 このページでは、私が撮った写真を貼りつつ、超個人的な5000系の思い出のようなものを 書き連ねてみようと思います。 |
まずは、2009年2月7日に相模大塚駅構内で開催された写真撮影会で撮ったものの中から、
一部をご覧頂きましょう。 かなり熱く相当枚数撮りましたが、同じアングルで撮影された
方が多くいるはずで、ほかに優れた写真が既に公開されていると思うので、そのうちのごく
一部を貼るに留めたいと思います。 この撮影会では、通常10両編成で運用されている5000系を5両2本に分割し、横に並べて撮影に 供していました。 単純に10両のままでは会場の設営に問題があったからなんでしょうが、 表情の違う顔の写真が撮れたのは嬉しいことでした。 |
2009.2.7 相模大塚
下り方、5553 (左) と5554 (右) 。 51F・52Fの廃車後5553は事実上中間車となっていたようで、新しいマークが貼付されて いないことからも伺えます。 しかし外幌の設備がなく、7000系7700形に取り付けが進んで いた当時から後先短いものとして考えられ、取り付けが見送られたのでしょうか? |
2009.2.7 相模大塚
この撮影会では種別・行先・運行番号の各表示が通常表示されない取り合わせになっており、
海側側面の種別表示も1両ごとにバラバラでした。 その賛否は多々あるでしょうが・・・。 湘南台開業に合わせて種別幕・行先幕が取り替えられ、それまでのものとは字体が変わって いますが、運行番号幕はそのままのようです。 新種別『快速』はともかくとして、『通快』 は初めて見ました。 何を意図してこれを入れたんだろう? |
2009.2.7 相模大塚
相模大塚の留置線はほぼ東西に向かって伸びており、快晴でしかも時間帯が昼頃、車体は 鈍く反射するアルミ製無塗装・・・ と、撮影条件ではあまりよくありませんでした。 そしてそれらを補えるほどの技術が私にはなく・・・ |
2009.2.7 相模大塚
一応4両とも正面から撮りましたが、ここでは5054の写真をご覧にいれます。 貫通幌・外幌・ロゴマークなし、という私が思う一番5000系らしい顔です。 新しいマーク (゚听)イラネ 7000系との差異は僅かな、細かなところですが数多く、表情はかなり違って見えます。 |
2009.2.7 相模大塚
5655 (左) と5153 (右) の連結部分です。 5151と5153はVVVF化の際に完全な中間車化されましたが、側面の隅柱が太く、側面裾の切り 欠きが残っていること (ステンレスの補強板は撤去) 、そして何より 妻窓が小さく位置が高いことが既存の中間車との決定的な差異となり、中間車化されたことを 如実に伝えてくれます。 |
ここからは、私が撮り溜めていた写真たちを貼っていきます。 長いこと相鉄沿線に住んでいたので利用機会は多かったものの、身近さが故の気楽さのためか、 撮影対象となることはなく、写真の枚数も少ないです。 また撮影時の腕が低く保存状態も悪いため、最近撮ったものと比べてひどいものばかりですが、 5000系に免じてお許し頂ければと思います。 |
1987.1.4 横浜
アルバムに唯一入れてある、5100系時代の写真です。 さすがに旧5000系当時には私が
産まれていないので、この写真が一番古いということになります。 私が高校に入るまでは日常的にはバスか自転車で足りることが多かったために電車に乗る機会 があまりなく、知識もそれほどありませんでしたが、5100系の存在自体は一応知っていたので、 出かけたついでで見かけたから撮ったんだと思います。 5100系は3010系ほど強烈な印象がなく、乗ったことはあるはずですが記憶には残っていません。 |
1993.2.14 二俣川
この日は横浜市保土ヶ谷区内で不発弾が見つかり、その撤去作業による立ち入り禁止区域に
かかる為に横浜〜星川間が一時運休、急行の運転を取り止め星川〜海老名間・二俣川〜
いずみ中央間で折返し運転を行なっていました。 普段は撮らない相鉄線を、さすがにこの日は
移動しながら撮っていました。 5000系は運休が終わる頃に上り各停・横浜行きとなって出庫してきたため、区間運休中の レアな行先幕は撮れませんでした。 しかし改めて考えてみると昼間の二俣川4番線には通常 『各停』が入らないため、これはこれでレアなケースだったと思います。 |
1993.11.13 鶴ヶ峰
普段はついでで撮るだけの相鉄線、そして数が少ない5000系や2100系はちょうどよい
タイミングで来るとは限らず、結果的にあまり撮っていません。 当時の私にとっては
新6000系や7000系は食傷気味で、あえて撮らなかったものです。 青い字幕の『各停』は下りいずみ野線直通を示し、いずみ中央開業時に『いずみ野』の 文字がないものを追加したようです。 |
1994.5.18 鶴ヶ峰−二俣川
基本的な技術がないのにポジフィルムを使うようになり、その試しに撮った写真です。 今一。 |
1995.1.1 鶴ヶ峰
ついでの写真。 確かバイト先に何となく顔を出しに行った時だったような? |
1995.1.13 相模大塚
6000系の廃車が進んでいた折、この日は何故だか6000系6021を追ってみたくなり、沿線を
ウロウロしました。 6021は午前中の一時相模大塚に入庫していて、同編成の他の車両の
側面写真を撮っていました。 その横を駆け抜ける5000系を、一応撮っていたんですね・・・。 しかし無塗装アルミと塗装鋼、露出の具合が何とも。 |
2005.5.8 二俣川
厚木での留置を経て運用に復帰した5000系をお気軽に追った時の写真です。 沿線から離れて約8年ぶりに乗ったので、車両も設備も変化が激しく驚きましたが、5000系の モーターサウンドや軋み音は記憶のままで、とても懐かしく思いました。 |
2005.5.8 星川
2005.5.8 星川
『快速』の登場で昼間のダイヤがかなり高密度となり、二俣川以東ではホームで立っていても ひっきりなしに電車が行き交うようになりましたが、反面スジが寝たのか、随分とのんびり走る ようになった印象がありました。 これで果たして便利になったのか不便になったのか、 判断が難しいと思ったものです。 |
2005.12.25 星川
2005.12.25 星川
この日は当時組んでいた7000系のNゲージキット (その後挫折) の
資料写真を撮りに行きました。 星川の跨線橋で待っていると5000系が入ってきたので、ここは押さえておきました。 車両は5154。 妻面の配管は7000系と違い幌の脇を露出して床下に伸びていました。 さすがにパンタグラフがPS13の時代ではないですね。 ちなみに、下り方先頭車屋根上に搭載されていた列車無線アンテナの配管は、アンテナから 海側を妻手前まで伸び、山側にクランクした上で山側の幌の脇を通っていました。 |
5000系は2月8日からヘッドマークを取り付けて定期運用に就きますが、それも10日で終了、
11日のさよなら乗車会を最後に営業線上から姿を消す予定だそうです。 数年前に若草色の車両が消え、『アルミ無塗装の車体に赤い帯』『白い車体に赤い帯』の アルミ車両も廃車や塗装変更が行なわれて確実に数を減らしています。 取り巻く環境や 時代の変化、そして発展している表れとはいえ、車両に見る『相鉄らしさ』が急速に 失われているようで、幼少の頃から時々ではあるものの眺めてきた私にとってはとても 残念に思います (それは相鉄に限らないが) 。
私は2005年に撮影した時点で、5000系の先はもう長くないと思っていたので、ここまで
生き長らえるとは思っていませんでした。 その割に撮影に行くことはほとんどありません
でしたが、それなりのものを手許に残せて、満足しています。 |
2009.2.10 エムサ菌